『そすいの郷』がある那須塩原市は、那須連山の裾野、箒川と那珂川の合流部にかけて広がる 、『那須野ヶ原』と呼ばれる約四万ヘクタールの広大な複合扇状地にあります。
『そすいの郷』の名前の由来となった、『那須疏水』により、今でこそ有数の米の産地となっていますが、那須野ヶ原は、江戸時代までは広大な荒地に過ぎませんでした。
『那須野ヶ原』の中央部は、扇状地特有の礫層が厚く堆積し、地下水は深く流れ、全く水がありませんでした。
熊川、蛇尾川と言う川が中央部を流れているのですが、この写真の様に、大雨の時以外はその河原に水はありません。
『続・奥の細道』では、「那須野は聞きしに違わず、草も長からず、木というものは木瓜さへもなし、炎暑の折等何処にぞや、手に掬う水もなし・・・」と、荒涼索漠とした、さながら砂漠を思われるように表現されていました。
那須疏水の開発
広大な扇状地の一部にしか人が住まなかった那須野ヶ原にも、江戸時代になって 用水路開削の試みがされるようになりました。
明治になってからは、大蔵省官僚であった松方正義の勧奨により、米国風大農場の創設を行うべく開墾事業を開始しました。
しかし、飲料水にも事欠く状態で、開墾にも困難をきたしていました。
那須野ヶ原の初期開拓者達は、飲料水を求めて、2~4kmも離れた箒川や下流域の湧水を汲みに行くと言う様な暮らしをしていました。開発には、まず飲用水路を!
このような状況を見て、1880年(明治13年)9月、那須開墾社の印南丈作・矢板武、肇耕社の三島通庸が飲用水路開削を政府に懇願しました。
1881年(明治14年)10月、ようやく飲用水路開削工事が竣工し、翌年11月に、待望の飲用水路開削に成功しました。
しかし、飲用水路のみでは能力が足りず、依然として水不足は解消されませんでした。
このため、印南・矢板両氏は、50日余り東京に滞在し、政府に灌漑用を兼ねた大運河の急務を訴えました。
調整は難航し、ついに印南・矢板両氏は、私費による試削を決意し、1884年(明治17年)7月に試削を開始しました。
そして、大水路開削工事を国営事業として起工するように、必死の陳情を繰り返しました。
1885年(明治18年)4月、国営事業として起工され、那珂川上流の西岩崎から那須開墾社に 至る約16.3kmの開削が進められました。
起工式から僅か5ヶ月間で、那須疏水本幹は完成し、1886年(明治19年)夏頃には、 基本となる第1~4分水が完成しました。
そして、最終的には約4,300haもの土地を潤す那須疏水が完成したのです。
現在の那須疏水
那須疏水は、昭和42年に着工した国営那須野ヶ原干拓建設事業が完了して、現在の姿となりました。
この事業では、深山ダム・赤田調整池を新設し水源を確保すると共に、西岩崎頭首工・板室ダム・蟇沼頭首工などを移設改修し、 幹線水路を整備する事業でした。
この事業により、総延長247kmの水路が整備され、4,515haの農業用水供給、1,640haの畑地灌漑などを行えるようになりました。
このように、140年前は、無人の荒野だった那須野ヶ原も、現在では、豊かな農産物が収穫できる、豊潤な大地へと変化しました。
食の危機が叫ばれて久しい昨今、私共は、『安心・安全』をモットーに、おいしい食品を皆様の元にお届けし続けます。
私達の先祖が作り上げた、『豊潤な』那須野ヶ原があるのですから・・・・。